昭和49年08月05日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。今合楽教会にお参りをして来て私の言うておる事を本気で守ろうと努力しておる者がいわば、少ないとも言えるわけです。今合楽では、どう言う事を皆さんにいうておるかと、信心は真心からと、昨日は神愛会ですから、先生方の研修でした。遠方から参って見える先生方は最近の合楽のいうならば、変わり方というものがよくわかられませんから。
昨日一昨日の御理解がどうでも頂いとってもらわないといけないから、もういっぺん頂いて、今日の御理解を頂いて下さいと、先ずテ-プを聞いて頂いたんです。私もやっぱり聞かせて頂いた。確かにね昨日一昨日、皆さんに聞いてもらう時には、この文章を徹底して聞いてもらわなければないなと、確かに思うておりました 昨日までもそう思うておりました。ところが実際昨日頂いてみましたらね、もう昨日一昨日のは、もう昨日一昨日のであって、やはり昨日の朝のでなからなければ、ピンとこないです。
もう私は不思議に思いましたです。いかに合楽の信心が日に日にさらなところへ進んでおるかという事を。改めて私の事を、勿論御理解の内容というのは、今の合楽におかげを頂いておる人達が、やっぱりいっぺんは頂いとかなきゃならない事ですけれども、いうならば、昨日の朝の例えば、御理解を頂くと、もうさらなものじゃない、もう一昨日のものは一昨日のものである。
そして昨日のものが一番新しいものに感ずるんです。それから、もう昨日のものは今日のものではないという事が言えるです。そのくらいにですね、まあ新しいというかね、ユニ-クな生き方というか、合楽の現在の生き方というのはを私は感じます。ここへ参って、神の言う通りに、その日その日のね、御理解に本気で取り組むと言う事なんです。昨日は、丁度四時半まで、神愛会の方へおかげを頂いて、それから五時には迎えに来ると言う事でございましたから。
佐田さんのところのお家の先代の恭造さんのおじいさんにあたる方の式年祭でございましたから、あちらで親戚の方がみんな集まって、盛大な霊祭がございました。あちらで頂きました御理解ですけれども、痛いからさすってもらう、掻いてもらうという時代はもう過ぎたと、合楽の信心から言うと、もう痛いとか痒いとかいうものが根絶すると言う所の時代だと言う事です。
それは十何代も続いた老舗ですね、昔のいうなら久留米の佐田世さんと言えばたいしたお店でした。いうなら天下のさだよと言われる位な時代があったんです。今は本店の方はいうならお終いの様な形になっておられます。それでもやっぱりその関係の方達がみな食料品の問屋をなさっておられる訳ですけれども、とにかく昔からもう仏教に凝り固まってある。それこそ月々に偉いお坊さんを呼んで親戚中、又お店の方達をみんな集めて、毎月いうならば、仏教のですよ信心の共励会をなさるという位に熱心なんです。
偉いお坊さんのお話を聞いて、もうだから仏教に凝り固まっておられる。私は前々からお願いしてあったから、お願いはしてあったけれども、勿論おじいさんの御霊さまが中心ですけれども、前日ここの御霊さまのお奉りの時に、いうならば御霊さま方へ合楽宣言、いわゆる極楽宣言を皆さんはもう、合楽に縁を頂いとるのですから、甘辛からなにから例えば、不自由する事はない、暑い、寒いを感じるような事はない。
極楽に今はおられるのだけれども、御霊自身が極楽にあるという自覚をもたなければならない、いうならば、まあだおかげの頂きたらんように思うとる。これは前世あの世も同じ事、合楽に御信心を頂いとる者はすべからく今極楽にあるんだ、けれどもその極楽を感じきってない。悟ってない。だから極楽を悟らせると同時にもう、次の信心であるところの合楽を願わせて頂いておるというのが、現在の合楽の信心である。
合楽をあらわすという、そういう意味で私は佐田さんのおじいさんの御霊さんを中心とするところの佐田一門の御霊さまにもその事を申しあげましたけれども、まあ、わかりやすく言いますとね、もうどうげん言うたっちゃ、もう仏教でよかちいう御霊がある。それがですね実際言うと、もう痛い痒いを例えていうなら、御霊がね仏教で御法事をいたしますね、真心こめてほんならそういう、とくしんといわれるくらいな、仏教の信者さん方ですから御一門が、ですから真心こめて、御法事なら御法事をなさいます。
そすとそん時にですね、それはやっぱり、先日の江藤さんのところの霊祭の時にはね、いわゆる、ねぎぼうずであってね、もう今の葱というのは神主という意味です。いわゆる、神道という意味もありましょう。坊主というのは仏教の事です。まあいうなら今の宗教ではですね、生きた働きを持たない、生きた働きを持たない現世でおかげを与えきらんものが、あの世でおかげを与えきるはずがない。
只死んだ時の為の、〇〇教と言った様な事にだしてしまっておるんだと、これは私がお知らせを頂いた事なんですよ。ねぎぼうずではもう駄目だと言う事。だから合楽にすがれというような事を、江藤さんのとこのお宅で頂いたんですけれども、昨日はねややね、やはりこう、そういうとくしんな仏教の信者ですから、そういう真心をこめて祭典をすると言う事、御法事をするとね。いうならばもう水が飲みとうて、水が飲みとうて堪えんという御霊があるなら、飲みたいけれども許されない。
甘いものも食べたいけれども許されないという御霊がです、御法事の時だけは真心を遺族のものがそう言う事を奉仕してくれる時だけは、甘いものが許されたり水が許されたりと言う様な事だと、いつもは痒うて痛うてたまらんのだけれども、そん時だけは掻いてもろたり摩ってもろたりがでけるという程度の助かりだと頂く。ですからうんなら今の合楽の信心はです、その痛い痒いというものが、根絶すると言う所なんです。
掻いてもらわんでもよい、摩ってもらわんでもよいという程しのおかげなんです。そこをいわゆる極楽という。後で聞かせて頂いたんですけれども、御本家の方にも今日はこうして合楽の親先生がおいでて頂いて、しきねん祭をさせてもらうからというて、案内をされたそうです。ところが私の方はもう仏教で五十年の時にするけんでもうよかち、あっさり断られたという話です。
あの世この世がつながっとる事がわからん、そんな事知りませんでした。親せきのそういう所までがよばれると言う事が。けれども、案内はされたけれども、向こうが例えば本家の方が断られたと言う事はです、私共御霊さまとの繋がりと言う事を感ずるでしょうが 御霊さまも同じ事をやっぱ言うてると言う事なんです。そして痛い々と喘いでおりながら、縋ろうとしない。これはもうしょうがないです。
うんなら今のここでもです、合楽に今御神縁を頂いておる程しの人ならみんな極楽へいっとると言うてもです、うんにゃ私しゃ極楽じゃなかというたらこりゃもうしょうないです。親先生がああ仰るから、あらためて考えさせて頂いたら、成程極楽のおかげを頂いとるたい、お金に不自由する事がない、食べ物に不自由する事がない、争いのないいわばおかげを頂いておる。
おかげでほんに合楽に、御神縁を頂いてこのかた、薬というものを飲まないが、本当にいうなら、三大苦といわれる争い病気いうなら、貧乏と言った様な苦労からいわば、解脱のおかげを頂いておる、それはお性分な小さいけれども、それぞれそれなりに頂いておると言う事をです、自覚させて頂く時にそこにお礼の心、感謝の心が生まれてくる。その感謝の心がいよいよ今のおかげより、より育てる働きになる、生きてくるわけです。生きておるから育つのです。
以前に佐田さんのお導きでやっぱり分家の、佐田ぶへいさんという方が夫婦でお参りされておりました。いわゆる五年前に、熱心に参ってきよった。なにがかしらそのままお参りがございません、お参りが途絶えております。だから、夫婦の方達にも、佐田さんの奥さんの里から見えておりましたから、その方達にも一生懸命合楽の宣伝をさせて頂きました。もう本当に一生懸命させてもらいました。
汗ぼろぼろになって宣伝をさせてもらいました。今合楽で私が言うておる事はね、そういうおかげをふんまえてそういうおかげを合楽で頂いておるおかげを先ず私共が一通りマスタ-して、それを一生懸命に宣伝すると言う事が今言われておるわけです。合楽では。二十五年間、いわば沈黙を守ってきておった、沈黙を破って、合楽宣伝と言う事、合楽宣伝と言う事は、勿論合楽教会の事を宣伝すると言う事ではなくてです、いわゆる合楽そのものを、合楽と言う事を宣伝するのです。
合楽と言う事はね、極楽にいっとる、私共は極楽というだけにとどまっとってはならん。自分の周辺の人も助かっていく、いうならば、大きな目を開かしてもらうという、今の世界の難儀に取り組ませて頂いて、その難儀の氏子達にたいするところの合楽を説いていけというこう言う事なんです。和賀心時代を、いよいよ広めていけと言う事なんです。ですから、ここへ参っても神のいう通りに今、うんなら私が言うておる事は、もう私共が本当に合楽の宣伝をすると言う事。
その為には宣伝の材料というものを本気で聞かなければならない、自分自身も体験しなければならない。どう言う事を宣伝していいかまだわからない。今神の言う通りにと言う事は、今の合楽では、今お話を申しました、いや最近お話しておる事を内容としてです、合楽をいかに宣伝をしなければならないかと言う事なんです。外んことをいくら守ったっておかげにならんです今は。ここへ参ったきてもです、今日今お話をしておる事を皆さんがです、心の内を改める事が第一なりと最後のところにありますのはね。
今までの思い方をかえて、今日親先生がいわっしゃった事と改めるという事なんです。そして今日は帰る道、道でもひとつ、宣伝して帰ろうと言う様なね、意欲を燃やせと言う事なんです。ここでは成程と聞いておっても、ここを一歩出ると自分の考えになってしまっておると言う様な事では、ここでは徳も力も受けられないぞと教えておられるのです。人間世界だけではない、御霊の世界にもそれをいわば一生懸命宣伝させて貰う。そして言う事を聞かんのは仕方がないのであります、御霊さまも。
随分時間かかりましたよ、昨日も私御祈念に。どうかしてこのお祀りに合わせようと思って。ところがいうならば、本家の方が断っておられる、いいえ私の方はいりませんとこうやってすとっとしめきってしまう。同じような事をそこの御霊に繋がる御霊達は、やっぱり同じ事をいっておる。それでほんなら本当に極楽へいっとるかというと、痛い痒いですから、掻いてももらわにゃいけんだろう、さすってももらわにゃいけんだろうと思うのですけれども。
水もほしけりゃ、甘いも辛いもほしかろうと思うですけれども、やせ我慢というのですこれを。それはうんなら現世、いうならば、現在合楽でおかげを頂いておる人達でもですね、先生はああ言いなさるけれどもというような事では、おかげにならん。昨日熊本の富永先生がお届けをしておられましたが、月末に必ずお礼に出て見えます。そん時に富永先生から、もう最近の合楽の変わり方というものはもう、戸惑うようです。
ですからここ一週間ばかりの御理解を、いつもテ-プを持って見えますから、収録してお帰りなさいというて全部収録して帰られた。帰ってそれを頂いたけれども実感としてピンとこない、そんなに繰り返し、繰り返し頂いておる内にです、本当にそうだと言う風に思わせて頂いた。あの方はもう体中に病気を持っておると昨日私は始めて聞かせて頂いたんですけれども、直腸肛門という病気が一番中心の病気だそうですね。
それでこれはもうね一生自分の修行として、この病気だけは持っとかんならんもんのように思うておったという。金光教の信心にはそう言う風考え方をする人があるんですよ。これは私、一生の修行と思うて頂いておく。ところがそういう考えがね、すきっつと一掃したわけじゃないけれどもです、こりゃ一掃せにゃいけんという事になったら、第一体に大変な変調が現れてきたというておられます。もうこれからは安心して大体もう合楽にお参りするだけで、外には出られない。
だから、外に出られなければならん時に安心して出られる様になったと言う事です。ここへ参っても神の言う通りにする者は少ないといつも教祖の御教えと、まあ一心に改まると言う事は心の内を改める事、本当に改めまらなきゃこげな事じゃおかげ頂かれんと言った様な、本当に改まると言うた様なふうに聞いて頂いた訳ですけども、今日はねここへ参ってくると言う事を合楽に参ってくると言う風に聞いて頂いた。
今合楽に参って来ておるけれども、親先生の言う通りにする者が少ない(笑い)とこう聞いて頂いた。同じなんですよ理屈はね。だから本当にもうその日その日の御理解を頂かなければ、だからもう戸惑うです。そしてなら最近のそのいうならば、お話の根底になるものはどう言う事かというとです、分り易くいうと、自力から他力へ移ったというですから、もう天地がひっくりかえる程の変わり方なんです。
表行なんかはいうならば、一つ本気で表行のでけんもんには心行がでけるかと、言った様な表現だった事がです、その表行をもう一掃して、表行の世界からは一掃して、心行にはいらなければならない。おかげで心行になったというのでから、はぁと心行になったといったら途端に心行を緩める人がある。おかしな話だよ。心行というのはもっというならば深刻でなからなければならないはず。
そう言う事ではおかげにならん。やはり梅の花の信心は梅の花の信心である。いうならば、合楽をどんなに宣伝しても、頂いておる、合楽で表しておるおかげのいわば宣伝です。例えば千の力しかないのにです、合楽が万の力もあると言った様な風じゃないです。私は昨日も佐田さんに話たんです、今久留米でインタ-ハイがあってます、市長さんが三十一日の日にお参りをしてきて、市長奥さん子供さんを連れてお参りして見えて、天候の事をお願いされた時にね。
もう今にも降りそうに耳納山は雨雲でかくれておりました。丁度見えた時に。ですから親先生、ここでは天気が自由になると言う様な話を以前頂いておりましたから、家内と二人でお願いに行こうと言いよるところへ、けたたましくしく電話がかかってきた。受話器をとると私は井上という者ですが、今合楽では、久留米全市の事をです、一時の御祈念にでもお参りすると、ねっとうを捧げておられます。
熱烈な御祈念があっとります。どうぞ市長さんとしてあなたもお参り頂くようにという意味の電話がかかってきた。本当に心臓の強い人だ、いくら宣伝時代だといいながら市長さんのところへ電話かける人があるという事を誰じゃろかと思いよった。井上ち言や久留米には二人しか信者さんはおられませんから。そしたら昨日でした、光橋先生が言うあれは、井上峰子さんです。峰子さんが本当に電話かけられたんですそんなに。しかし偉いと思うですね。もう本当に宣伝時代です。
パッと乗られたわけです。丁度そういう電話を頂たから、さあというてその秘書の方を誘うてお参りしてきた。それこそ七十年に一回しか回ってこないという、インタ-ハイにおしめりでもあったんでは大変だと思うて、せめて三時から六時までの一番大事な時間だけでも、お天気を頂くようにというのが願いでした。それで私は市長さんに申しました、今までは市長さんあなたん話を聞くばぁっかりじゃったけどね、もう今日からはね、私が一生懸命お話をするから聞いて下さいというて、一生懸命お話をしました。
宣伝時代ですから。久留米市内に真、善、美を表す、久留米市内に合楽を表すと言う事を私に約束して帰られました。帰る時には。そして帰る時にお母さんここへ来たばっかりで見てごらん耳納山のあの雨雲が綺麗に晴れ上がってしもうたじゃないのというて帰られました。又事実そうですた。だから私、市長さんに三時から六時までてんなんてんおっしゃらずにですね。
ちゃんと本当にやはりお天気のおかげを願われたがいいですよというたら、そんなら欲な事言うごたるですばってん、じつを言うたら五日が久留米祭りでございますと、だからもう五日までお願いでけんでしょうか、でけん事がありますもんかお願いなさらないけませんよといって、まあ冗談のようにいうて帰られましたけれども、おかげを頂いておる。昨日なんかまでもどうですか、鳥栖までは夕立があっとる、ここもそこんにきまでは夕立があっとる。只久留米市内だけがなかったそうです。
だから私、佐田さんをつかまえて、その分家の佐田さん夫婦をつかまえてね、こういう例えばね、こういういうならば、すさまじいおかげの頂けれる合楽、ああたが参ってきておった時分の合楽とは違う。天地が自由になる程しの事じゃから、人間の身体ぐらい自由自在にならんはずがあるもんかと、だけれども自分でおかげを断ち切っておる、「あげにゃいいなさるばってん、そげなことは頂かれめえ」とこういうふうに。それはもうおかげをそこに締め切っておるようなもんなんです。
だから今皆さんが本気で合楽の御理解を頂かれるならば、宣伝の話はなんぼでもあるはずです。いよいよ夏の祈願祭も近づいてきよります 案内なんかでも私は、早めに作って頂きたい、そして今度は量を沢山増やして頂きたい。そして宣伝したいところには、銘々でひとつ出してもらいたい。勿論自分で一口位書き添えて宣伝文句を書き添えてひとつ出してもらいたい。どうでもお参りしとうなるような、いうならば、文句も書き添えて頂きたい。合楽は今、そういう宣伝時代に入っておる。
本当に宣伝でもしなければ間にあわない。人類のいうならば、世界総氏子身の上安全、世界真の平和というような事をです、唱え言葉のように拝詞の中に唱えておりますけれども、今程それを、私共めいめいが実感としてです、世界の平和を祈らなければならない、世界総氏子の身の上安全を本気で祈らなければおられない時はない。そこで私共自体がです、まず極楽のおかげを頂いて、合楽のおかげを表わしていくという信心になって行く時にです、宣伝しなければおられないという事になるのです。
ここへ参っても神の言う通りになる者は少ない、ここへ参っても合楽の先生が言う通りの事をする氏子が少ない。そんなら今どうしたらいいですか、今は本気で皆さんの心の中に極楽を感じ、それからその極楽を合楽のと言う事に進展していくことの働き、それを私は宣伝時代と言っておる。合楽を表すという事は、とりもなおさず宣伝なんです。そういうおかげをです、そういうあり方にならせて頂こうと私の心を改める事が第一なりという事になるのです。神に一心とは迷いのない事ぞと。
結局親先生の言う事を、信ずるか信じないかと言う事なんです。私はそれこそ教祖さまの信心を頂く為には、教祖さまの信心のあられかたを身につけなければならないように、合楽に御神縁を頂いて、私が合楽にです貧乏どもする人があってはならないという強い祈りを持っております。ですから皆さんが必要ないうなら、使うて減らん金百両の徳を受けて下さるならばです、うんなら私のあり方というものを身につけて下さらなければいけんのです。そこからです、みんなもその通りのおかげが受けられると言う事になるのではないでしょうかね。
どうぞ。